マシェロットは、ゼンマイ切れみたいに動きを止めたピエナをかろうじて顔を見せていた地面に落ち着かせた。
「大尉、お体は……」
「心配ない」
ピエナは思う。この人はどれほど強靱な精神力をしているのだろう。たった今あれほど狂わされたというのに。獣混じりであっても美しく敏感でやわらかな身体には、確かに魔悦がくすぶっているはずなのに、そのことをおくびにも出さないなんて。
「33番、お前の方はどうだ?」
「少し……まだ、変な感じがしますけど……なんとか……ですけど、どうして、こんな魔物が……」
「ここはかつて戦乱が起き、命を落とした兵士たちの怨念が宿る地だった。そんな経緯から障気が吹きだまりのようになり、連中にとって良い隠れ蓑になったようだな。討伐隊は定期的にこの森を訪れている。過去何度かの作戦で滅された魔物の残存魔力が集まって、いまの魔物になったのだろう。類似ケースはいくつか文献で目にしたことがある」
王国の人間が『ラエリスの炉』と呼ぶ、高次臨界エネルギーフィールド。そこから引き出され、使用された魔力の残滓や、滅殺された魔物から漏れだした魔力が集結し、老木に宿ったらしい。
「それにしても、たいていの媚薬成分には耐性ができているはずなのに……あの魔物の言っていたとおり、これはまったく新しい成分のようだ。敵の快楽責めに使われたら大変だな。それに、次の討伐隊のためにこれも持ち帰らなければ……」
「持ち帰る? これ『も』……?」
「33番、すまないが荷物を取ってくれないか」
「荷物、ですか?」
ピエナはきょろきょろとあたりを見回し、マシェロットのバックパックを発見した。試験前に抱いた中身への興味がぶり返し、ふらつく足で駆け寄る。肩ひもを右肩にかけ、持ち上げようとする。
尻餅をついた。
「なっ!? これ、なんて重さなの……!?」
重いだろうとは思っていたが、自分の体重の倍では効かない重量だった。バックパックではなく、肩ひもの生えた岩じゃないかと目をこらす。
「ああ、すまない。重たくなっているのを忘れていた」
歩み寄ったマシェロットが、ひょいと荷物を持ち上げる。ありもしない浮揚魔法のスイッチを探すピエナの前で、バックパックが開かれた。
「え……これって……」
中に入っていたのは毛布でもコッフェルでもテントでも寝袋でもなく、プレパラートや顕微鏡や多くの採取キットやケースにサンプリングされた動植物の試料だった。角で殴れば人死にが出そうな分厚い学術書も三冊入っている。
理解する。
彼女は無数のサンプルを採取する任務のついでに自分の試験官を務め、挙げ句39時間で19回、自分を『殺した』のだ。どちらがメインの任務かは知らないが、知らない方が心の健康にいい気もする。
実力差を思い知る。落胆するどころかいっそ清々しい。今だって、彼女は手を伸ばせば届きそうな距離で粘液や残骸をパッケージしているが、どう襲いかかったところで返り討ちにあうだろう。
「……かなわないなぁ……」
魔物が言っていた巣とやらは遠いのか、同胞が出てくる気配はない。一応周囲に気を払いながら守っていると、作業が終わったらしく、マシェロットが立ち上がった。
「あ」
「はい? あっ……大尉、リボンが……」
三つ編みが揺れたその拍子に、リボンがちぎれて落ちた。戦闘の中で触手がかすめていたのか、○○の中ですり切れたのかはわからないが、ゆるく波打つ金色の長髪が、ふぁさりと広がった。鬱蒼たる森の中、そこだけ場違いなほどの神々しさ。無意識に体内時計をロード。39時間57分。
「はは……あははっ、おめでとう、33番。お前は合格だ」
「え……」
ピエナには意味がわからない。
「だ、だって……じゃなかった、お言葉ですが大尉、リボンがちぎれたのは私がやったことではなく、あれは……あれはあくまでも偶然の産物で……」
「『どんな手段を使っても、リボンをほどけば勝ち』……そういう話だったはずよ。忘れた?」
再試験をパスしたのだとすれば喜ぶべきことだ。けれど、こうまで華麗にあしらわれた上に、合格の決め手は他力である。到底納得のいくものではなかった。
少なくとも、ピエナはそう思いこんでいる。
「だけど、私は何もしてないんですよ!? さっきの魔物に襲われてるうちにこすれて、それで……」
「……あなたがあの魔物と手を組んでいたのかもしれない」
「えっ……」
「だとしたら、やっぱり私の負けでしょ? 手を組んでいなかったとしても、ピンチをエサに私をここへ誘い込む作戦だったかも知れない。そうしたらやっぱり私の負け。『どんな手段を使っても』。くり返すけど、それが合格の条件なんだから」
「あ……」
喜びより先に戦慄が走った。自分は、助かったと思っていた。魔物から逃れたという目先の事実に満足していた。その脇で、彼女はなんら警戒を緩めていなかった。そうならざるを得ない領域に彼女はいて、その場所に、これから自分は踏み込もうとしているのだ。自分は大尉のようになれるのか、と思い、その想像のあまりの無謀さに胃が痛くなった。
「だまし討ちでもなんでもなくて、本当にあなたは合格したの。不安なら、一筆書いてもいいのよ?」
「わかり……ました……」
40時間分の警戒心は、乳酸と筋肉痛と打撲と擦過傷と虫刺されとなってピエナの全身にこびりついている。本当に自分の合格で試験終了なのだろうか。これは何かの罠ではないか。頭の中をぐるぐると疑念が回る。
けれど、あれほど凛然としていたマシェロットが、どうしてか嬉しそうに微笑み、言葉づかいさえ和んだものに切り換えている。
その表情に、ピエナの胸は熱くなる。このひとは、こんなふうに笑うのかと思った。こんなにもいい顔で笑うのかと思った。
その笑顔だけは、信じられた。
「そういえば、ねぇ、あなた、名前は?」
「え、えっと、ピエナ、です」
試験番号33番は自分がいまだ名乗ってもいない礼儀知らずであることを思い出した。痛む身体をぴんと伸ばして最敬礼。
「私は、ピエナ・メルキュールです」
とにかく名前名前と気が急くせいで、所属も階級も抜けたぐちゃぐちゃな自己紹介。けれど、がっちがちの彼女が大尉の苦笑の理由を知るのは、もうしばらく先のことになりそうだった。