「だけど、はぁ、はぁ……かなり奥まで来たはずだから……少しは時間、稼げるはず……」
濃密な障気と特徴のない景色に方向感覚が狂い始めている。それでも、全力で、相当の距離を駆けてきた。
「それにしたって、なんなのよ、あのインチキ臭い実力……!」
読み違えもいいところだった。いつから勘づかれていたのかわからないが、マシェロットは背後から全力で襲いかかった自分を、振り向きもせず迎撃したのだ。
「あれが……帝国最高峰の実力……ガーランド・ガード……」
口にするだけで震えが走る。畏怖と同時に随喜を覚える。獣人という身体的なメリットはあれど、生物の身で、あそこまで強くなれるものか。彼女の立つ位置から、世界はどんなふうに見えるだろう。あれほど強くなれば、生き馬の目を抜く訓練所の中、弱さに怯える日々など無縁なのだろう。
そのとき体内時計が15分を告げた。
「もう時間が……!? くっ……」
頭のリソースはただ逃げることだけに食われ、戦略など立てていない。手ごろな場所が見当たらず、ピエナは虫の蠢く枯葉の中に体を押し込んだ。息を潜め、気を鎮め、知覚のアンテナをめいっぱい伸ばして周囲を探る。
「……このあたりには、誰も、いない……? そうよね、自信ないけど、まっすぐ逃げてきたんだから……」
緊張と疲労で、火で炙られているみたいに喉が渇く。動きを止めたことで消耗を思い知る。自分の弱さに、口の奥に広がる苦い味。
あの大荷物を抱えているうちは勝機があるなんて、読み違えもいいところだ。マシェロットは左手の剣も使わず、振り向くことさえせず、片足と落っこちていた丸太の一本のみで自分を圧倒したのだ。
あの背中との間には、どれほどの実力差があるのだろう。
「……悔しい……知らない間に訓練所なんかに送り込まれて……好きでやってるんじゃないのに、どうして、こんな……」
不意に、ものすごい勢いで殺気が迫ってきた。
「えっ……」
何の予兆も脈絡もなかった。感知される理由に心当たりなどない。なのに、林立する緑の向こうから、殺気の塊が矢のように駆けてくる。
「やっ、あっ、あっ……!?」
一発で萎縮した。山火事に巻かれたときでももう少し冷静だろう、それほどの恐慌状態。逃げることさえ忘れ、ピエナは落ち葉の隙間で虫のエサになったまま、たっぷり3秒動くことを忘れた。
「あっ、逃げ……どこか、逃げないと……!」
ただ本能の命じるままに、両手で地面を突き飛ばす。上半身が起き、腰を曲げ、膝をたわめ、立ち上がろうとしたピエナの耳を、こぶし大の石がかすめた。
「ひぅっ!?」
石は側頭部の髪を一房引きちぎり、からめ取りながら、数メートル先の木の幹をごっそりとえぐった。砲弾の直撃を食らったような木は、広げた枝葉の重さに負けて、ピエナの方にめきめきと倒れてくる。
「くっ……」
衝撃波を浴び、動くことを嫌がる脳みそに鞭をくれて、身をよじって後方に跳ぶ。
「こんな非常識な……あっ!?」
着地し、ピエナが片膝をついた。その背中に走る、ごり、という硬い感触。
「あ……あ、あっ……」
「これでお前は2度死んだ」
「っ!」
額ずくように丸めた背中、7番頸椎と1番胸椎の隙間に、鞘尻が押し当てられていた。
思い知る。
(私……また、殺された……!!)
今ごろになって髪の毛を持っていかれた耳の上が痛みだした。その痛みを感じることが……生きている証拠が、にわかには信じがたい。
「どうして声など出した。お前の集中力はザルに貯めているのか? それになんだ、すぐそこまでくっきりと足跡が残っていた。お前はこの森に道路でも作るつもりか?」
「…………」
再試験だ、とマシェロットは言った。だが、よくよく考えれば、そんなものを通過して養成所に戻った例など聞いたことがない。
剣は、斬らなければなまくらになる。戦士の勘は、尻で椅子を磨けば磨くだけ鈍っていく。これは役立たずを始末し、彼女ら最前線を離れて教鞭を振るうガーランド・ガードが勘を忘れないための、一粒で二度美味しいイベントではないか……そんな気がしていた。
早くも2度、『殺され』ている。20度目にやってくるのは試験の終わりではなく、命の終わりではないか。
「答えろ33番。お前は死にたいのか?」
「死にたく、ありません……」
「ならば逃げろ。嫌になったらそう言え、本当の死がお前を追いかける」
ピエナは逃げた。
怖くなって、どこまでもどこまでも逃げた。